水を守る・森林編第4話-東京の水源林と本多静六-
- 2023/06/17
- 22:09

(『荒野聖』の口絵。鏑木清方画、昭和初期の雑誌「苦楽」に掲載された。)
山蛭(ひる)に襲われ、命からがら暗い森を抜け出た旅の若い修行僧は、
山中の孤屋(ひとつや)に辿りつき、一夜の宿を請います。
「お泊め申しましょう」声の涼しい女が出てきて、旅僧を裏の谷川に案内すると、蛭に喰われ血のにじむ背中を素手で洗い流して、
「暑いですね、汗をかいてしまいました」と女は着物をするりと脱ぎ棄てました。つと振り返ってみた女の立ち姿は妖艶。旅僧は息をのみます。
実はこの女、男をもてあそぶ好色。男に飽きるとふっと息を吹きかけ、猿や馬などに変えてしまう怖しい妖力の持ち主でした。
この泉鏡花の幻想小説の傑作『荒野聖(こうやひじり)』は、グリム童話の『ヘンデルとグレーテル』や『白雪姫』などと物語の構造が同じです。若い主人公が森の中で怪異なものとできごとに遭遇。九死に一生を得て森から生還。主人公はひとまわり成長して幸せになります。
森は死と再生をもたらす異界であり聖地なのです。
東京の水道水源林は“御料林”でした
ドイツ留学から帰国し帝国大学で教鞭を執っていた本多静六は、博士論文執筆のため帝都の水道水源林を視察。その荒廃ぶりに愕然とします。荒廃の原因は明らかでした。
明治維新まで多摩川上流域は徳川幕府の直轄地でした。地域住民は山への入会権を取得、生活に必要な木材は山から持続的に調達することを許されていました。要するに、山と共存していたのです。
ところが、明治政府はこの地を皇室の財産とする“御料林”に一方的に編入。住民から入会権を取り上げ、樹木の伐採を一切禁止したのです。
生活のすべを失った住民は反発。盗伐、乱伐、開墾、更には焼き畑までを繰り返し、無立木地(はげ山)を広げていました。
この実情を目の当たりにした本多静六は危機感を募らせ、
「これを放置すれば、帝都に災害を招く。また帝都の水道事業が危うくなる」と時の東京府知事に直訴。危機感を共有した府知事は、水源林の一切の調査経営を本多に委託。本多は辞退しましたが、他に引き受ける人もいなかったため
この大任を受けることになりました。
最初に手を付けたのは、水源林の大部分を占める山梨県の丹波山村と小菅村の御料林の買収計画です。御料局の岩村長官を訪ねて交渉します。岩村長官は本多の訴えを深く理解。一町当たり10円13銭。
なんと総額6,782円で東京府に譲渡(注1)に応じました。
この時代、公務員の初任給が8円ほどだったそうですから、それを基に換算すると現在のほぼ1億7000万円! 嘘みたいな安値で買い取ったことになります。
時に明治32年(1899年)、泉鏡花は『荒野聖』を脱稿。前年に淀橋浄水場が通水、水道が給水開始。本多静六34歳、意気壮健でした。
水源林の育成と製炭の辛苦
この買収の2年後、東京府水源林経営監督に昇格。帝大任務の傍ら水源林経営の本格的な指揮を執ります。
荒廃した御料林の雑木を伐採、伐採跡地に針葉樹(標高1200m以下にヒノキとサワラ、1000m以下にスギ)を植栽。また伐採した雑木は炭にして販売することにしました。
しかし数年後、植えた苗木は雪害や寒害にやられ、斜面によっては風害で倒れて難航します。すべてが人力の時代、苦労は尋常ではありませんでした。
あれこれ失敗の末、皆伐を中止。雑木の間隔をあけて伐採し、雑木の間に苗木を植えることで、ようやく成木への目安がつきました。ドイツ林学は現場で徹底的に鍛えられたのです。
植林よりも困難を極めたのが製炭でした。まず炭焼き職人を集めるのに難儀します。この事業を立ち上げた時に技師に採用した教え子2人が、炭焼き職人を求めて遠くは北陸にまで足を運びました。
標高1500mの山奥に70戸ほどの集落をつくり、簡易小学校まで設けますが、
寒さに夜逃げする職人が出るなど人手の確保に骨を折ります。
そのうえに製炭した炭の保管、輸送、販売先の開拓、問屋との交渉などで、学者のにわか商法では解決が難しい問題が続出しました。
製炭業に着手して7年後、ようやく事業が軌道にのりはじめた明治45年(1912年)、水源林の経営権を東京府は東京市に譲渡することになります。本多静六はこれをもって退任を決めますが、ここに難関が!
炭焼き職人に前払いした賃金が巨額な赤字でした。公官庁の会計法規では前払いは違法行為で処罰されることが判明。
「このまま計上して、若い官吏の経歴に傷がつくのは忍びない」と、自腹を切って赤字を補填することにしましたが、
赤字額は4840円! これは本多の帝国大学教授の俸給3年分に相当したそうです。現在のおよそ1億2000万円! 婿入りした静六です。義父と妻に頭を下げて支払いました。
「林業経営は容易ならざるもの」と回顧録で述懐していますが、それにしても高い授業料でしたね。
経済林から水源涵養林へ
(現在の笠取山。東京都水道局より)
本多静六が植林してからほぼ120年。はげ山は見事な森に覆われています。
当時のドイツ林学は、国家の近代化に歩調を合わせたものでした。成長の早い針葉樹を植林して木材資源を調達する、一言で括れば“経済林づくり”です。
しかし驚くことに、その後日本はこの“経済林づくり”を昭和の末まで続けました。本家のドイツでは早々に針葉樹と広葉樹の混交した自然林づくりへと方向転換をしています。
東京都は昭和の終わりになって、水源林の目的は水源涵養機能の向上であることを謳いました。そして平成8年(1996年)、
“経済林づくり”から“環境林づくり”に大きく舵を切ります。
水源林の70%をしめる天然林の伐採を禁止し、将来は人工林のほとんどを自然林に戻すとしたのです。森づくりはようやく近代を超克しました。
グリム童話の舞台、死と再生をもたらす異界の森とは何でしょう?
民族学者の大野寿子氏(注2)は、グリム童話の構造を古代からの通過儀礼に立脚していると指摘しています。
未開社会では、若者(子供)が森の中で死と再生の秘儀を受け、森から還り成人(大人)として共同体の一員になります。この成人への通過儀礼が物語の骨格にあるという訳です。
私たちは通過儀礼など経ずに社会の一員になります。その分、私たちの生と死は共同体から浮遊して孤独なものになっているかもしれません。
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注1)6,782円で東京府に譲渡:お茶の水女子大名誉教授遠山益著『本多静六日本の森を育てた人』実業の日本社2006年刊、第4章「水道水源林の育成」より。
注2)大野寿子:東洋大学教授。著作『黒い森のグリム―ドイツ的なフォークロア―』郁文堂2010年刊、第5章「メルヒェンの森と通過儀礼」。
(日本一広大な東京都の水源林位置図。東京都水道局HP)
2023・6・16記 文責山本喜浩